不思議はアイデアのはじまり|赤瀬川原平の子どもの哲学(マンモスインタビュー)
ちょっと目線を変えたり立ち止まったりするとたちまち、忘れていた疑問を思いだしたり、気がつかなかった不思議が見えてくる。「こどもの哲学 大人の絵本」には、そんな疑問への答えがたくさんつまっています。著者の赤瀬川原平さんから、新しい挑戦であるこのシリーズ本のことを中心に、親と子のコミュニケーションのヒントになるお話がたくさん聞けました。
四角形はどうやって生まれたか
『四角形の歴史』はどうやって生まれたか
シリーズ三冊のうち、いちばん最初に考えたのが『四角形の歴史』。ある日、四角形ってなんなんだろうとぼんやり考えていたら、フレームの問題に突きあたって。歴史に残っている人為的なものには、つねに四角形がありますよね。文字だって四角形が基本だし、文字の並びも文章も。四角形がいつどこで生まれたか知りたいけれど、そのことを教えてくれる人もいない。どうやらまだ誰も考えていないようだし、おもしろいなあ、ということで、自分で考えていったんです。
まず、犬は風景を見るのかな、という疑問が湧いた。食べたいもの、必要なものを犬は見るでしょう。たとえば犬の目玉のレンズだけ借りてきても、構造的にはわかるけれど、犬の頭のなかで視界に入ったものをどう捉えているかまではわからない。風景というのは、人間的なものなんだと思うんですよね。でも人間も、最初は風景を見ていなかったんじゃないか、というところから探っていった。四角形は文明の種みたいなものだということです。道具だって、人間が考えだした最初のものは、もちろん残っていない。やじりだとかそういうものは残ってますけれど、それができたときにはもうかなり文明は進んでいただろうし。
子どものころから、四角形に対する漠然とした疑問はありましたね。学校でいろいろ図形を習いますね。それで、だいたいのものは四角形だなあと思って(笑)。部屋は四角形で、グラウンドもだいたい四角形で…といって、まだ子どもだから、自分で考えて理論的に納得するところまではいかないけれども、気にはなっている。そんなこと、ふつうはそのうち忘れちゃうんでしょうけど(笑)。
でも、子どものころからずっと気になっていることって誰にでもありますよね。忘れていても、だんだん歳をとると、子どものころの記憶がふとしたときに出てくる。記憶までいかない、その前の感覚みたいなものかもしれない。初めて食べた料理、初めて撮った写真…。自分の体験でもね、やっぱり初めての体験っていちばん鮮烈に覚えているし、そのなかにいちばん本質が出ているんですよね。
宇宙創世は男女の仲で説明できる
この本の組み立てにはずいぶん苦労して。本ですから、商品ですからねえ、あんまり……一応、常識の範囲内で(笑)。今回いちばん考えたのは、僕も含めて、いわゆる世間的なうんちくがダメだったりするような、そういうふつうの人が読めるものを書きたいなということ。感覚っていうのはみんな同じにもっているわけで、そうした生の感覚というか、耕していない頭に読みとってほしいなというのがあるんです。それで、できるだけ短い文章と絵のスタイルになりました。僕自身、びっしりつまった本ってまず挫折する例が多いんです。だからもうできるだけふつうの、辞書を引かなくていいことばを使って。ことばがあるばかりにごまかされちゃっていることってすごくあるんですよね。それなしで、エキスだけをふつうに伝えたいと思うと、ものすごくむずかしい。
でも、比喩やたとえ話で説明がつくと、スッと納得できる。その実例で、自分でも思いついていちばんおかしかったのは、ビックバンの話。物理の本を読むとよく、重力・電磁気力・強い力・弱い力と、四つの力でこの世は成り立っているという。でも、強い力、弱い力というのがなんだかよくわからなかった。そんなとき、松井孝典さんの分化論に出会ったんです。要するに、温度が冷えていくにしたがって、なにごとも分化されていくというんですね。ビックバンのときは重力と電磁気力の違いがまだついてないとか、いろいろ説があるんだけど、要はドカーンといったときにはすべての力がまったく同一だったらしいんですよ。それで爆発したら、そのときから冷えていきますね、散らばるから。その過程で重力とか電磁力とかにわかれてくるらしい。ああそうだったのかと… 男女もそうかなあ、と思ったんですよね(笑)。冷えていくとだんだんとわかれていきますね。いちばん冷えきるところまでいくと、離婚しちゃったりして(笑)。最初に、爆発というか、一体化した瞬間というのがあるわけじゃない。なんでもそうなんですよ。人間が人間に引かれる(惹かれる)っていうのも、分化的な意味でいうと、似たような構造になりますよね。近づいたり弾かれたり。というように、比喩がぴったりはまると理解が深まるんです。世の中の力っていうのはこういうものなんだと。原理を突くっておもしろいんですよ。もちろん子どもなりでも。
小さいときから観察することが好きでしたね。あれ? というようなことが気になるんです。二眼で二枚の写真を撮って、それを立体視するステレオ写真というのがあります。立体視できるようになるのはむずかしいんですよね。20〜30年前かなあ、それに夢中になって。立体視を試みたときに、ある体験を思いだしたんです。子どものころに数カ月間、トラホームかなにかで片目に眼帯をしていたことがあって。僕は呑気なもので、それでも学校の休み時間にキャッチボールをした。ところが、向こうから来るボールが取れないんですよね。コンッておでこにあたっちゃう。ちゃんと見ているつもりなのに、いつものようにボールが取れないのが不思議だったんですよね。数十年後、ステレオ写真を見るときに、幼少時の不思議な体験と重なった。ああ、あれは片目で見ていたから、図像としては見えるんだけど距離感がわかんなかったんだと。実体験があったから、ふたつの目で見るからこそ立体視できている、という目のしくみに対する理解が、すごく深まったんです。
比喩の構造
たとえを言って、それが即、通じるというのは、おたがいに共通するものをもっているということ。そのことで納得がいった話がひとつあるんです。僕もちょっと関わっているヒッポという言語研究の団体があって、代表の榊原陽さんという人は天才でね、教わることが多いんです。その人がなぜ多言語の活動を始めたかというと、たとえば、ある家族が転勤で外国に行く。子どもはさっそく外に遊びにいっちゃいますよね。そうするとすぐ、現地のことばを覚えちゃう。家庭ではお母さんが日本語で話すから、日本語を理解することはできるけど、外で母親以外の人と接することも多い子どもにとっては、英語が主体になってしまう。で、最終的には英語が母国語になっていってしまう。その子の環境にあることばが、その子の母国語になっていくということです。
そりゃそうですね。DNAがいくら日本人でも、アメリカに生まれてアメリカで暮らしたら、パッと出てくるのは英語ですからね。でありながらも、母国語以外の次の言語というのは覚えにくいものです。と、思っていたら、あるときルクセンブルグに行って、公園で遊んでいる子どもたちを見ていた。ルクセンブルグという場所じたいが、多言語の国なんですよね。で、その公園の子たちが平気で三カ国語をあやつっているというんです。
つまり、それぞれ家に帰ったらその家ごとの母国語というのはあるんだろうけど、環境に三つ以上の言語があると、三脚が安定して立つのと同じで、相対化できるらしいんです。二カ国語だと、より通用するほうにウエイトがいってしまって、メインではないほうがおろそかになっていく。三つあるということは、四つめ、五つめは、どんどん簡単になっていく。それで彼の理論によると、重なるコアの部分が、数が増えるごとに密になっていくというわけです。
たとえ話の理解への構造は、まさにこれだと思うんですね。この構造というか本質の部分が、たとえが増えるたびに深まり、明快になっていく。子どもって勉強しなくても覚えちゃうでしょ。教えなくても文法を知っている。音楽と一緒で、耳に入ってくることばを自然に覚えていくわけです。これにもとづいたヒッポの取り組みはすごくおもしろいですよ。聞こえてくる歌を口ずさむように、ことばを覚えていくという。子どもが自然に覚えていくのと同じようにやれば、大人でも勉強しなくていいんだってことで、しょっちゅう音を流してね。
やさしくないことの必要と、なにもしないことの必要
『自分の謎』で言っているような、自分への不思議な感覚というのはみんなもっているはずだけど、ほかの遊びにいそがしくなって、どんどん忘れていっちゃう。でもその感覚ってどこかには残ってるんですね。さっき僕は初体験と言ったけれど、体験することというのは、やっぱりおもしろいんです。体験していくなかで、自分の身体感覚っていうのがわかってくる。
みんな言っていることではあるけれど、いまの子は体験が少ないからね。思いどおりにいかないことって必要なんですよ。制約って必要なんだなって、あとになって思います。人間ってやっぱりわがままですから、制約は嫌だって思いますけど、昔はもう、制約のない社会なんて考えられなかった。僕つくづく思うんだけど、昔は親っていうのは、そんなに苦労しなくてよかったんですよ。稼いでさえくればよかった。いちいちやさしさなんて考えなくても、ふつうにやさしくするもんだったし。というのはね、世の中が厳しかったから。寒さがまずあるし、僕なんかしょっちゅうしもやけができて、歩けなくなって病院へ行ったりしたし。体質もありますけど、つまり自然条件が本当に厳しかったから、かわいそうだと手を差し伸べることが、単純にやさしさとして、よかったんですね。いまはそれはもう、暖房はどこでも利いていてあったかいし。環境がそんなふうにやさしいから、今度は親のほうがむしろ厳しくしないと、バランスがとれなくなる。なのに、ただやみくもにやさしくやさしく、とやった結果が過保護社会になっちゃった。
だから、かえってむずかしいんです。心を鬼にしないといけないから。昔は、鬼にする必要がいまほどはなかったんじゃないか。自然という環境が、怖い父親の役をやってくれていたんですよ。いまはそれをなくして楽になった代わりに、親が自覚してふるまっていかなくちゃいけない。それをみんなやってるかというと、そうじゃないと思うんですよね。
自分でもそう思いますね。娘が喘息になったとき、心配だからね、どうしてもやさしくしちゃうんですよね(笑)。そうするとね、喘息を見ているとわかるけど、もうほっとくしかないわけです。自立させるしかない。まあ本当はどこか寮に入れるとか、環境を変えるのがいいんでしょうけど。そのときつくづく、ああ、俺も甘いんだ、と(笑)。だから、よほど自覚しないと、いまの世の中ってむずかしいと思うんです。
そんななかで、親子でいる時間をつくるっていうのは重要なことですよね。路上観察やってたころに、初めての人たちと街をふらふら歩くと、なんだか気持ちいいと言うんですよ。なんでだろうなあ、とさかんにみんな不思議がって。それは、用事じゃないからなんですね。仕事じゃないから。だけどなにかを探しているっていう、そういう時間は、やっぱり必要なんですよね。
赤瀬川原平(あかせがわ げんぺい)
1937年、横浜生まれ。ネオ・ダダの人、千円札裁判の人、カメラ好きの人、トマソンの人、路上観察の人、名画解説の人、正体不明の人、とさまざまな顔をもつ。60年代は前衛芸術家として活躍し、お札をモチーフにした作品がもとで、芸術のありかたが世に問われた芸術史に残る裁判も経験。尾辻克彦の名で作家としても活動しており、『父が消えた』では芥川賞を受賞。90年代以降では著書に『新解さんの謎』『老人力』などのベストセラーがあり、ユニークな思想が世間に広く受け入れられた。今日までつねに第一線にあってひとつの姿でない、まさに「赤瀬川原平」が肩書きといえる。
このインタビューは、『mammoth』 No.12(2006年)に収録されています。 取材・文:野村美丘 写真・藤田二朗